今の生活って…

今の地球上での生活というものは、生活年数(生きている年月)が長ければ長いほど肉体的にも精神的にもしんどく、辛く、意味のないものになっていきます。お金という価値基準を満たしているいないは論外です。そして厄介なことに、自我もたくましくなっていきます。人間が仕事をすることで柱となる社会生活こそ、意味のない人生を送るためのもってこいの製造工場のラインと化します。命がどういうものか、自分は何なのかがわからなければ、生きている意味もわかる筈もなく、心臓が自分の意思とは関係なくなぜ動いているのか…その真意を掴まなければ、ただ死ぬのを待つだけのライン工で終了です。自分が勉強し、社会に適合し、うまく人間関係を形成し、社会的立場、社会的仕事に人生の土台を置けば、今の文明システムとしては、立派でちゃんとした人間として扱われます。つまり地位や名誉、称賛、お金といった社会生活につかっている者としては最高の幸せを手に入れることになっています。それに適合できないダメな人間は失望し、自ら命を絶ってしまう人も後を絶ちません。今はいいです。この世界に限ってはいいです。しかしそれは今後ずっと続くことはないのです。命に関して無知のまま死んでしまうと、死んでからが問題となります。今度こそ取り返しがつかない世界になります。日本人は根本的に命に対する姿勢が疎く、まるでアルツハイマーのように徘徊している状況だと思います。例えば、いままで生きた中でも見たこともない美味しそうなごちそうに例えると、ほとんどの人間は 旨そうだね〜と眺めている状態。または自分は一番最後に食べれば…と変な謙虚さな状態。またはいつかは食べたいという後回し的な状態。または食べてもいないのにあーだこーだ理屈を言う状態。または自分はこれを食べるに値しないという悲観的な状態。またはこれは何かあるぞ、という警戒する状態。またはごちそうの材料を調べて、食するに値しないという状態。またはハナからいらないという状態。だれでも食すことができるのに、これを自ら拒否している状態…。人により手を付けない理由は様々だと思います。しかし、子供はそんなことおかまいなしに、美味しそうだからちょうだいと真っ先に食べるでしょう。子供は純粋です。だから命を純粋にみつめることができると思います。そこに回りくどい説明やごまかしや謙遜など一切ありません。しかし歳をとるにつれ、自我が根付き自分がこの世界でしっかり生きていることにより、疑いや子供のような心が失われ骨抜きになり変わります。人類は嘘と偽りと騙しと裏切りが横行している世界です。そんな中に何十年もドップリつかっていたら、骨抜きにされるわけです。まずは客観的事実、心臓が動いている、西暦が人類の中心軸となっている、この世の物質は在るように見えていて、実体はないこと。これが私たちの命に関して直結してくるのです。でしたらなぜこのようにわずらわしく、ないものを在るの如くリアルに人間を欺いているような構造になっているのでしょうか?なぜこうも次から次えと自然災害の猛威が世界を脅かしているのでしょうか。それがもし何かの警告だとしたら…。だとしたらなぜわざわざそのように回りくどい警告をせしめているのか…。わたしたちは地球上に生きている以上、知らなかったでは済まされない出来事が死んでから発生してしまうのではないってことに、ピンと来なければならないと思います。


精神vs現象世界

結局私たちは文明社会の資本主義世界、貨幣がモノを言う生活を生まれてこのかた余儀なくされています。日本に生まれた者は、日本の憲法に従い、教育・納税・勤労の3大義務に沿った生活をしています。そこに疑問を呈す者など誰一人としていません。人間の生活スタイルに疑いの余地もありません。

生活に必要だとなんだかんだ綺麗事を並べて、お金に重きを置いています。時に人の命よりです。

お金がないから人が死んでしまうのです。そういう世界に人は矛盾や憤り、怒りや幻滅という思いを常に抱いていきながら、生きていかざる得ない苦しい状況がこの現象世界ということです。生まれてこなければよかった…。そういう人がいます。

人は自分の意思で生まれてきた人など皆無です。では地球に生まれてきた真意はなんなのでしょうか。生まれたいからここにいます。という人がもしいたら、すべての人間はお金持ちのところを選ぶはずです。それどころか、そもそもこの世界に矛盾や不平等などあるはずがありません。わざわざ苦しみたいから難民生活を余儀なくされている所にきました。などど生まれてきた人間など、これも皆無でしょう。

中東のようにお金の使い道がなく、仕方なく1千万の車を何十台も購入しただ飾るだけという人間もいれば

一方で食べるものもなく、衰弱死してしまう子供たちもいます。国により恵まれ度は様々です。

今アメリカでは人種・宗教や考え方の違いによる差別が浮き上がっています。

これが横行していてなぜ平等平和と言えるのでしょうか。

日本だって政治の矛盾や、様々な悪行がまかり通っています。正直者はバカを見るのが、今の日本の現状です。

富や権力を得る者は、嘘に嘘を重ねてピエロを演じて騙し続けています。得をするのはそういうピエロだけです。

全てがそうとは言えないかもしれませんが、それが土台となっていることなのでしょう。

本当に品格のある人というのは、そういう物質の欲望との戦いに、精神を武器にし真っ向勝負している人たちです。

そういう人たちには、例え10対74億であろうともエセ指導者達は絶対に勝てないのです。


精神と自我。

今の人類社会は自分が正しいと思う人たちの集合体であって、それぞれの国を中心にしたコミュニティを形成しています。政治、経済、法律、宗教、スポーツ、教育、文化、芸能全てがそうです。人間の欲望、自我を中心として体をなしている現状です。文明の進化も絶え間ない欲望が生んだ産物です。それはいいのですが、その手柄を自我(自分)が握っているということが、人間の精神を壊している原因でもあるのではないでしょうか。自分がやった。自分が考えた。例えば美味しい魚を自分が料理した。それは地球の資源のものを拝借したものにすぎず、その魚を創らしめた根本は度外視されているのです。りんごの味もそう。ほとんどの人は色や形に目を奪われ、根本の味自体にはそれほど意識を向けていないということ。ただうまいで完結し、色形に目を奪われています。美味しいという本質には考えも及びません。あまりにも単純な話です。だから何?って次元です。ただそれが人間が生きている本質に大きな確信を秘めていることですが、人間はその疑問を棚上げし続けています。そういう自分だってそうです。ただ美味い肉だとがっついているだけ… 獣の如く…  ただ…それは違うと、気づいて心を新たにしなければ死んで終わりになってしまうということです。人間の生きている意味は視点を思いっきり変えないと気がつきません。文明の教育では全く意味がないというのが極論になってしまいます。さらに既成概念や固定観念があると、全く価値のないものに思えてしまいます。答えは単純なのに、形に縛られ、目で見ている物質に心を奪われています。地球はそういうダミーの世界ということなのにです。ダミーが本物と思っています。思っていなくても思っています。そういうトリックにはかいじめにされています。ということは自分がいるという前提で思っていないと考えるのは、無駄なあがきになり、無駄な努力であり、意味がないということです。死んだその結果が自業自得となり、それこそ本末転倒であり、悲しみ、苦しみの極みでしょう。地球で生きている人生の生き方の落とし前は、死んでしっかりと跳ね返ってくるという客観的な事実を向き合わなくてはなりません。今置かれている現状がどうであれ何としてもです。

自分がいる(生きている)と思い込んでいる人たちは、そもそも精神というものを履き違えているために、いつまでも自我意識が宿主となっている状況です。そういう自分もその一人ではありました。その結果が現代社会の混沌さを物語っているということは当然ということでしょう。今は平和な世界と言えるでしょうか。戦争もあり、事件、病気、災害、貧富の差… どう見てもどう考えてもそうは思えません。どう考えても文明は間違っています。文明は行動が良かれ悪かれ欲望をはらんでいます。欲望は不平等、不公平、妬みや嫉妬、足の引っ張り合い、自分さえよければ… と常に矛盾と隣り合わせです。精神とはそういう欲望を一切はらんでいません。精神というものは、一般的には人間の心(魂)そのものであって、生命や宇宙の根源と考えられる、形而上(けいじじょう)の存在。形をもっていないもの、感性的経験では知り得ないもの。有形の現象の世界の奥にある、究極的なもの。と唱えられています。よく人間が言葉尻に発する精神論とは次元が違うということです。精神と自我はそういう一線を画した状態ということが言えるのでしょう。この文明においてしっかりとした認識で精神と向き合う場合など皆無でしょう。自我で判断し、自分の考え、自分の力(そんなのはあり得ませんが…)で生活している人間が、未だに74億ほどいます。向き合うか向き合わないか、2つに一つです。

 


色即是空

色とは、現象世界のことです。形があるものは、全部色があります。物質的に現象しているものを、色というのです。

 物理的現象が空であるというのは、本当は存在しないということです。これをよく考えることです。肉体があると思うのは、現世だけしか通用しない考えです。自分の肉体がある。家庭がある。奥さんがいる。子供がいるというのは、この世に生きている間は、たしかに事実です、しかし、この世に生きている間というきわめて明瞭な限定がつけられているのです。そこで、無限定にものを考えるという方向に進まなかったら、本当の意味での人格完成はできません。

 肉体がある。家族があるというのは、現世の現象としてあるのです。こういうふうに考えればいいのです。現世の生活を、絶対だと考えないのです。自分自身の存在は、過去、現在、未来という永遠につながる本質をもっているのだと考えるのです。人の命は、過去があって、現在という現象が生れたのです。現世に生れるためには、その原因があったのです。無形の原因に、人の命の本性があったのです。本来あった人の原因が、現在現われているのです。何のために現われているかというと、自分自身の命の本質を、究明するためです。この世に生きていても、死んでしまうだけなのです。この点を、よく考える必要があるのです。

 現在生きている命は、まもなく終ります。まもなく終ることが分かっていながら、現在の命を、本当の命だと思うことは、自分自身の理性と良心を、偽ることになるのです。なぜなら、理性は、現世以上の永遠を求め、良心は、無限の善を求めているからです。

 肉体的に存在するという思いが、肉の思いなのです。肉の思いに束縛されているのが、現在の人間でありまして、文明思想が大変悪いのです。この世の中の通念、常識が間違っているのです。社会通念にごまかされていますと、現世にいる肉体存在の自分だけが、自分だと思えるのです。肉体人間はいます。しかし、肉体的に存在しなかった、過去の自分があるのです。魂の自分があるのです。魂の自分が、今、肉体的に現われているのです。

 やがて、死んでいきます。死んでいくのは、未来へ移るだけのことです。過去から、現在、現在から未来へ移っていくのが、魂です。そのように見ていきますと、現世だけの家族とか、商売に限定されなくなるのです。それらは、現世の命なのです。

 本当の意味での命の完成、人格の完成になりますと、現在の束縛された状態、拘束された魂ではなく、開かれた魂が必要です。開かれた魂で考えますと、今までの日本人の考え方に、頓着しなくなります。考え方が、根本から、変ってしまいます。

 色即是空、五蘊皆空ということ、現象世界は、本物ではないという意識を持てば、思想が、だんだん切り替わっていきます。自由意志によって、これを、はっきり持つのです。

 例えば、電車に乗るとすれば、電車に乗っている自分は、空なのです。動いている電車も、空なのです。このように考えるのです。

 そうすると、今まで眠っていた脳細胞が、だんだん働き出すのです。脳細胞が眠っているから、色即是空が分らないのです。眠っている脳細胞を、呼び覚ますのです。そのためには、自由意志によって、自分の考えがまちがっていたと、はっきり意識することです。そうして、色即是空と、口に出して言うくらいになるのです。

 目で見ているものは空であると考えて生活しますと、奥さんがいても、その奥さんは、幻なのです。女というものの、本質を勉強するために、神が妻を与えているのです。目に見えている女は、本物ではない。目に見えている自分も、本物ではない。実は、男と、女という、宇宙の本性があるのです。命の性(さが)が、形として現われていることが、だんだん分ってきます。

 このように、私達が生きている世界の実体を、はっきり看破するのです。今の学間は、ここまで到達できませんからダメです。学問が行けないような、高い次元へ行かなければ、永遠の命という本質をつかまえることはできないのです。

 難しいと考えるのは、脳細胞が眠っているからです。眠っている脳細胞を、呼び覚ましたらいいのです。呼び覚ますためには、色即是空ということを、自分の脳細胞に言うのです。魂は、目を覚ましたいと思っているのですから。   梶原和義ブログより引用


本質は強欲で狡猾

現代の弱肉強食の資本主義社会は、お金儲け、政治、経済、娯楽などを軸に洪水のような情報で重要な要点に興味を持たせなくし、目を向けさせていません。その結果、文明が生きている証、実体であると信じて疑わず、持つ者は持ち、奪われるものは奪われ、無防備に生きている人間はどんどん貧困に嵌まっていく構造です。今の人類はそれが人生の本質と思い込んでいます。確かにそうです。生まれてからそう教育されているので、自然にそういう思考が身についてしまっています。この世界は嘘だ、間違っていると思いが巡ってきたとしても日々の生活において元の思考に引きずり込まれてしまいます。

そもそもその疑問に対してじゃあどうすればいいのか…という正しい答えを唱える人間など私たちの周りには一人もいなかったことでしょう…。その問いの答えを誤れば、宗教や哲学なのに引きずり込まれるのがオチです。そういう狡猾な存在でさらに本質から遠ざかっていくどころか、テロリスト、過激な宗教家のような怪物に形を変えてしまいます。そういう世界で私たちは数十年生きてきました。世界も2017年の時が経過しています。今のこの世界が、一片の曇りもなく幸せであり正しい世界だとお思いでしょうか…。病気や怪我、事件、事故や災害、戦争、殺人に妬みに嫉妬、お金に振り回され…。それが根本的な文明システムは変わらずにいるにもかかわらず、顔形を変えて手を変え品を変えて人類を落とし込んでいます。人々はそれに振り回され、お金を言うもので命をも縛り付けられています。それで私たちは人生に納得しえているのでしょうか。貧しさや病気、戦争などで歯を食いしばって生きている人たち…、その文明の理不尽さに騙された挙句において地球上での生命を断つこと、終えてしまうことは絶対にしてはなりません。それほど悲しいことはありません。この文明が生きている本質などあるわけがありません。心静かに自分の魂に問うてみれば解るはずです。この地球で生きている真意は何なのか?なぜ世界は無秩序なままなのか?自分は何のために生きているのか? …まだ数は少ないけれどその答えを唱える有志はいるのですから。


盗人猛々しいほどに

“盗人猛々しい”って俗に図太い、図々しいと言われます。

今の文明は、地球の資源を我が物顔であさりまくり、さも自分ものと勘違いしています。

私たちもお金を払っているから当然とばかりに日々地球の所有物を活用しています。

空気も水も何一つ人間は作れないのにです。

感謝しても森の恵み、海の恵みと勝手な解釈で拝借しているということです。

命もそういうことがいえるのではないでしょうか。

自分が望んでこの国に、この性別で生まれてきた自覚がありません。

そもそも何のために生まれてきたかの目的がわかりません。

わからないから、文明という文化に染まらざる得ない状況です。

 

また、私達が死んでどうなるかという問題もまた勝手な解釈で文明は落とし込んでいます。死んだら天国にいくという説が一般的に

まかり通っていますが、これは何の根拠もありません。事実と関連づける決定的なものもありません。

だったらいいなー、きっとそうだ、そう仮説すべきなど、人類は思いこんでいます。

そこには何の議論の余地もありません。疑問や意義を唱えることもしないのです。

そこには宗教という思想(存在)によって意識的に思い込ませなくしていることもあると思います。

何かを信じれば、天国にいける…

そうでなくても、死んだら天国へ旅立つ的な概念が平然とまかり通っているのです。

 

そして今、一時的な人間としての人生の間に、“正しい命をつかむこと” につながらないと、

死んでからでは取り返しがつかなくなるという事実が付いています。

それが大問題なのです。だからこれは私たちの現状がどうであれ、どんなことをしても掴まなければなりません。

掴み方の方法はどうな方法でもいいのです。

 

「私なんか…」「私のようなものが…」「まだ私には恐れ多い…」「私には無理です…」

こういった心境って腰が低く、謙遜しているように伺えますが、

実は大きなチャンスを逃してしまう決定的な要素でもあります。

それだったら気づかないで死んだ方がよっぽどマシです。

 

たとえ現状が、適当でいい加減な人でも本物に気づいたもの勝ちなのです。

そしてどんなことがあろうが、食らいつくくらいのガメツさがとても大事なのです。

しかし、ほとんどの人間は“命”にはうとくて、お金(自分の事)にはガメツいのです。

 

人類がそういう構造になっているので頭がそれ(本物)を重要視しにくいのです。

そこが大問題です。人類の問題はほどんとお金で解決できますが、“命”は“お金”と

対極にあり、一線を画しています。

お金ではかえることができないものが目の前にあったという事実を死んでから

思い知り、後悔の念に苛まれては遅いのです。

死にたくないと思う人がいたら、真摯に謙虚にまずは耳を澄ましてみることが大事なのではないでしょうか。

 

今の世の中、世界情勢を見渡してみれば、人類の先行きは何となくわかるのではないでしょうか…

だからこの問題を真摯に受け止める人も、私のような盗人猛々しい人間なのかもしれません。


勉強会の内容をYouTubeで

梶原和義先生が主催している毎週土曜、日曜の勉強会の内容が、現在無料でYouTubeで聞けます。
聞き逃した方、場所が遠くてなかなか行けない方、興味がある方、まずは聞いてみましょう。


人間、死にたい人などいないはず。この文明での人生=死ぬ(死んでいく)という流れは嘘です。
死んで天国へ行く?どこにそんな保証があるのでしょう?
誰が言って誰が確かめたのでしょう?
絶対に死にたくない。本当のことを無視することは絶対にできません。
この短い数十年の中、本当の命を掴むか、みすみす逃すか…。
死んでからでは遅いという事実です。


https://www.youtube.com/watch?v=5D66QB-0Iv0


我執(がしゅう)を捨てる

宗教は、人間に一応の導きを与えるために、神が許したものです。現世に生きている人間には、宗教的な文化意識を経なければ、神にとりつくことはできないのです。

学理学説でも、そう言えます。現在の人間の文化、文明は、肉体を持っている人間を認めている両親が、赤ん坊を育てると同じように、あんよはじょうず、ころぶはおへたと、神が人間の霊魂を育てているのです。これが、宗教なのです。

動物的に存在する人間を、神的な人間に引き上げるためには、一応動物的な道程をたどらなければならないのです。

肉体人間は、仏教的に言いますと、胎臓(たいぞう)の世界にいるのです。有形の地球は、母親の体内、母体の中なのです。人間は物質があると考えています。神は人間に、ありもしないものを、あるように認めさせているが、これはなぜかといいますと、二歳、三歳の時から、理論物理学の説明をしても、分からないということです。高等学校から大学へ入学してから、理論物理の話しが分かるように、神もそのように考えているのです。

人間の教育過程は、神のまねをしているのです。人間の教育は、根本的に間違っています。なぜ間違っているかといいますと、人間の教育は、生活することを教育しているだけであって、命のこと、生命のことを、全然教えていないのです。これが間違っているのです。しかし、まず生活のことを勉強しなければ、命のことは分からないのです。そこで神は、人間に、生活のことを勉強することを、許しているのです。これが、人間社会の胎臓(たいぞう)の状態です。物質が存在すると考えている人間は、まだ母の胎内にいるのです。神の体内にいるのです。時間、空間の世界は、神の胎内です。神の母体です。全地は、命の母なのです。地球は命の母であって、命の胎内に、うろうろしているのです。業(ごう)を果たすにはどうしたらよいか。人間が地球上に生きていることは、本当の命ではない。仮の命だということに気がついて、本当の命を受けとめるために、肉の世界、仮の命を出てしまわなければならないのです。

五蘊皆空(ごうんかいくう)を実行しなければならないことに気がつくと、人間は仏になるのです。この世に生きていることが空であることが分かりますと、人間は成仏するのです。成仏しても、まだ神が分かったことにはならないのです。仏になることは、すべての我執をすてることなのです。我執、我欲をすてることが、仏になることなのです。

仏というのは、人間の思想が、こんがらがっているのを、ほどくことなのです。「仏とは誰が言いにけん玉の緒の、糸のもつれのほとけなりけり」という歌があります。ああ、人生は、生きていても何もならない。生きていることは、一つの経験にすぎない。本当の命ではないということが分かるのです。そうすると、人は仏になるのです。そうすると、初めて、神を信じようという気持ちになるのです。まず、仏にならなければ、神を信じることはできないのです。キリスト教の人々は、仏にならない状態で、聖書を読んでいるのです。だから、いくら聖書を読んでも、神が分からないのです。仏になると、本当の神に面会できるのです。

目が見えること、耳が聞こえること、おいしいという味がわかることが、神だということがわかるのです。

生きていることが神なのです。まともに神を信じることができる精神状態を、仏というのです。まず、解脱することです。常識で生きる、学問で生きることが、間違っているのです。学問とか常識は、死んでいく人間がつくったものです。私達は、神に面会できるまで、神の実物が分かるまで、自分の気持ちを捨てることです。命はいつなくなるか分からないのですから、一日も早く、本当のことを知りたいという熱意をもつのです。

今生きているのは、仮の命であって、本当の命ではないのです。これを解脱して、始めて、生きている事がらの実体が分かるのです。実体が分からずに生きているのは、仮の命で生きているからです。

本当の命の実体が分かりますと、おいしいとはどういうことか、美しい、楽しい、うれしいとはどういうことかが、分かるのです。これが命であって、「しい」の世界のことを、魂というのです。「しい」というのは、魂の動詞なのです。霊魂の働きの、動詞なのです。人間が生きている状態を見ますと、「しい」の世界の他には、生きていないのです。ところが、この「しい」ということが分かっていないのです。だから、死んでしまうのです。本当の命が分かる人、本当の神をつかまえることができる人は、めったにいないのです。この、めったにいない人の中の一人になりたいと思うのです。そう考える人は、そうなれるでしょう。志をたてる事が、その人の命になるからです。やろうと考えるのです。人間を解脱して、神をつかまえることは、本当に難しいことです。しかし、これ以外の方法では、業を果たすことができないのです。死を突破することはできないのです。

死を破るためには、それだけの犠牲を払わなければならないのです。犠牲とは、自分の考えを捨てるということです。どんな難関を突破してでも、万障をくりあわせて、命をつかまえたいと考えるのです。   梶原和義ブログより引用


錯覚の牢獄

人間は自分を捨てるのが大変難しいと考えますが、そう考える理由は、現世にいる自分が何かのプラスになるような気がするからです。肉体的に生きていることが、何かの役に立つような気がする。ところが、役に立たないのです。肉体的に生きているという事自体が、全く役に立たないのです。イエスは、肉は益なし(ヨハネによる福音書6・23)と言っています。肉体的に人間が生きていることに益がないのです。ただ一つ益があると言えるのは、イエスが生きていたのも肉体的であった。自分の肉体とイエスの肉体は、同質のものだということに気がつきますと、自分の肉体が霊体になってしまうのです。肉体が生きていなければ、イエスを勉強することができないのです。種は蒔かなければ麦は生えないのです。種のままで温存していても、絶対に多くの実を結ぶことはできません。そこで、自分を捨ててしまうのです。なぜ捨ててしまうかというと、皆様が肉体的に生きていることが、無意味なのです。ただ肉の生活を送っているだけです。肉は益なしと、イエスは簡単に言っているのです。

イエスは肉体的に生きているように見えました。しかし、洗礼を受けた後のイエスは、幻として生きていたのです。幻として生きているという実感があれば、肉体として生きているという外形があっても構いません。

霊の思いは命であり、平安であるとあります(ローマ人への手紙8・6)。霊の思いで皆様が生きていることになりさえすれば、肉体的に生きている命は、あってもなくてもどちらでもいいのです。仮に肉体が病気になっても、それに対して責任を持たなくてもいいのです。肉体に背く、無茶なことはできませんが、病気があってもなくても同じことです。霊に従って生きるということは、生きている原質が全然違うのです。皆様は、肉体的に生きている自分が、霊体としてのイエスの中に入っていくのが、非常に難しいとお考えになります。ところが、難しいとお考えになる理由が、あやふやなのです。

皆様は生きていても何にもなりません。どんなに成功しても、しようがない。ただ死ぬだけです。外形的(肉体的に生きている人間は、ただ死ぬだけです。絶対に救われません。イエスは、水と霊からとによって、新しく生まれて、神の国に入れと言っています(ヨハネによる福音書338)。水から新しく生まれると、肉体が消えてしまいます。霊から新しく生まれますと、今までの世界観、価値観が、全部消えてしまいます。新しい人間になって、神の国に入るのです。花が咲いているのは、神の国です。花が咲いている世界の中へ入っていくのです。入れるのです。入れるから入っていかなければいけないのです。

入れないと思っている原因の一つは、自分が生きていることが、何か大変な意味があると思えるからです。これが間違っているのです。神は肉体人間が生きていることを、虫けらのように見ているのです。神と同じ見方をするのです。従って、肉体的に生きている自分は、何の価値もない、益なしです。これをはっきりお考えになると、自分を誤解されようが、裏切られようが平気です。

現世に関係がない人間になってしまうのです。これが消極的な面です。積極的な面を言いますと、イエスが主であるという実体を、受け取るのです。皆様に与えられている五官の働きは、先天性です。先天性が肉体性として生きているのであって、肉体が生きているのではない。肉体という条件は絶対ではありません。自分自身のハート(heart)によって、自分の肉体をどのように用いるかによって、自分の善悪利害得失の考えが、全部変わってしまうのです。

イエスが水から上がった時に、イエスの肉体が消えていた。霊体だけが見えたので、神はアイ・アム・ウエル・プリーズ(I am well please)と言ったのです。神がウエル・プリーズというように、皆様も肉体を扱って頂きたいのです。

空なるものとして自分の肉体を扱うために、般若心経は非常に参考になります。自分の肉体的存在を、重大に考えないことです。生きていた所で、死んでしまうだけです。死ぬ以外に、目的はありません。

人間が肉体的に生きている目的は、欲望を果たすためであって、これ以外に目的はありません。錯覚の牢獄に入っているのです。これから出てしまうのです。自分の五官の働き、魂の状態が、イエスだということに気がつけばいいのです。

皆様の霊魂は、そのままイエスです。皆様は霊魂の人間になればいいのです。肉体人間をやめて、魂の人間になればいいのです。それだけのことです。これは誰でもできるのです。難しいことではありません。断固としてする気があればできるのです。これ以外に、永遠の生命の実体を捉える方法はないのです。  梶原和義ブログより引用


情報という幻影

私たちは日々情報という波に埋もれて生活しています。情報は日々これでもかと言わんばかりにその発信をし続け、私たちを死ぬまで陶酔させています。その波に一切触れていない人間などいません。スマホやテレビや雑誌なども情報かもしれませんが、広い意味では人間(肉体)も情報ということです。人生の意義がただ単に外見じみた情報だけで捉えてしまうと人間の本質を見失ってしまうと思います。情報に洗脳されてしまうということです。俗に 洗脳 という意味をイチ宗教に絡めたものに対してイメージしますが、そんなチンケでチープなものではなく、どう考えても見破れない、巧妙なトリックにより私たちの疑いの余地もない状況… これこそが正真正銘の洗脳というものです。宗教の洗脳など単にその一角にすぎないということです。本性は別にあることを気がつかなければなりません。まず人間の本質とは生理機能、心理機能、五感です。この機能がない人は皆無です。この機能がないとただの木偶の坊であり、ゾンビのようなもの。心臓が動き、車を運転したり、人と会話を交わしたり、物を見たり、感動したりすることは絶対にできません。

 

私達は、空気や水を自分で造っているのではありません。ところが、天地が供給する空気や水を、どんどん使用して生きているのです。つまり、人間は生かされているのであって、生きているのではありません。

仏教的に言えば、他力本願的に生かされていることになるのです。そうすると、他力の実体は何であるかということなのです。空気は一体どうしてできるのか、水はどうしてできるのか。この宇宙構造の実体は何であるかということなのです。心理構造や生理構造は、どうして人間に与えられているかということなのです。今、私の目の前に、皆様が座っていらっしゃるとします。皆様は、生れたいと思ってお生れになったのではありません。とすれば、今座っていらっしゃる皆様は、自分ではないはずなのです。

自分が生れたいと思って生れたのなら、自分という人格があっても当然ですけれど、自分が生れたいと思わなかったのに勝手に生れてきたのですから、厳密に言いますと、皆様は自分ではないはずなのです。そうすると、何であるかということになるのです。

 

梶原和義ブログより 一部引用

 

文明社会は目的などありません。そう思い込まされているだけです。

ビルを建てる、売り上げを上げる、ご飯を食べる、旅行に行くっていう意味での目的はあるでしょうが、それは結局情報の一部であり、何の中身もありません。死んだらそこまでの事柄です。そこに人生の価値を一番に持ってくること自体が様々なアイテム(政治、経済、芸能、教育など)によって刷り込まれてしまっているが故ということです。手を変え品を変え巧妙にすり込まれてしまっているのです。人間自身もそう。自我意識というものに邪魔をされていて、本質にたどり着けないように持っていかれます。自分が、お金があれば幸せだと…。そういう世界に身を投じこまされているので、それ自体は仕方がないのですが、この中で、例えば美味しいものを食べて美しい景色を見て、何を感じるかということです。

その本質を捉えない限り、肉体と同じく遅かれ早かれ(といっても数十年の話)儚くついえるだけということです。

この地球で生きている意味は結構紙一重ということなのです。油断せず、驕らず、冷静に、真摯に、実直に、素直に生理機能、心理機能、五感で感じなければ、自我意識がその一挙手一投足を邪魔しに訴えかけます。

本質にたどり着くということは、常に自我意識との攻防を制さねばなりません。その本質をつかめる主戦場が地球ということです。つまり裏を返せば死んだらアウトということです。こういったことにピンとくるかこないか。その差はあります。私たちはどうでしょう…


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