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自分という「フェイクの存在」と「もう一つの存在」

この地球に人間が生まれて、親が名付けた名前がある自分というものを信じて疑わず、実はもう一つの存在が・・、つまりそれこそ本当の自分であることを未だ知らずに、人生数十年の間、親が名付けた固有名詞の『 人間 』としてこの生活をしているとしたら どうでしょう。そもそも自分が国も性別も環境も選んだ実感もありません。果たして自分は本当に親が名付けた存在が本当の自分なのでしょうか。生まれてこのかたそんなことを考えることもありませんし、「まともな考えじゃない」とそんな気など意に介しません。目が見える、心臓が動いていることがごく当然のように振るわれています。肉体と心理機能・生理機能・五官がセットのようにあしらわれています。ましてやその真意に導く答えは、般若心経+聖書という書物の中に密接に関係しているという見解があるということは尚更眼中にありません。般若心経+聖書なんて…宗教である教典であり、単に歴史的書物であり、格言であり、馴染みもなければ、意識を向けることもありませんし、そもそも、あったかどうかも見当つかない歴史書物に過ぎないというイメージが強烈にあると思います。私たちは日曜日を否定できるでしょうか? 西暦を無視して覆せるでしょうか? 聖書という書物は私達がなぜ地球に生まれたのか。何のために生きているのか…。じゃあ生きている世界は何なのか? その答えを理路整然を記されている取説なのだという実態であるということが、未だ解明もされず違う角度で解釈され続けて数千年間、聖書は文明よってその真意を説かれることなく、勝手に解釈され、その真意にはこれっぽっちも触れられていないという状況にあります。人間の存在理由の真意が聖書には記されています。文明(キリスト教や学者など)は勝手な解釈で捻じ曲げれられ、都合のいいように用いられ、正しく読み説いていません。そもそも人間は肉体である自分が存在しているものと今も思い込んでいます。しかも聖書の中のイエスをはき違えるという失態を未だに演じ続けているのです。固有名詞の自分はいないという本質を見失い続け、自分が考え、自分が仕事し、自分が生活しているというように…。一生幻影を追い続けているのです。ユダヤ人が創りあげげた文明システムという中で自分の存在は神格化しているといっても過言ではありませんし、そこに人間は陶酔しきっています。私たち人間は催眠術にかかり、詐欺にあい、一生を終え、死んでというザマです。そもそも生きている感覚として、心臓は自分で動かしているものではない。目が見える、仕事をする、アイデアがでる、それこそ実体であろうもので、自分のものではないのです。いまの人類(人間)は魂というものの本質が全く分からなく、曖昧で、無知なままなのです。聖書のイエスは私達の道すじであり、完璧な見本ということなのですが、人類はイエスを崇めてしまっています。崇拝しています。結局神という存在も、実体を捉えていません。偶像偶像と謳う宗教も実は偶像の主犯であるとは夢にも知らず…。文明はフェイクか私たちの話が寝言の戯言かどうか。今の文明社会を見渡せば分かることかと。死んだら天国へいく? 宗教を信じれば救われる? それは果たして死んだ本人に聞いたのでしょうか? それこそフェイク極まりない事だと感じませんでしょうか。


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  • 2018.09.20 Thursday
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