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錯覚という牢獄

何故私たちは、こんな矛盾極まりない世界に存在しなくてはならないのでしょうか。世界各地でこの世の常識・教育を受け、働いてお金を稼ぎ生活するというレールを強制的に人間は走り続けています。地球で生活しているという現実は突き詰めて行くと果たして、正真正銘 本物の出来事なのでしょうか。人生の真の目的は果たしてソコなのでしょうか。私たちの生活の中にある存在で、多くの植物や動物、昆虫、魚、果物、野菜など多種多様な生物が存在しています。それぞれ軽く何万という種類がです。それに空気や海や水や太陽が存在し、ごく当たり前のようにですが、それが何故存在し、しかも 人間が生命を維持するために絶妙なバランスで成り立っているかなど考えもしないでしょう。ただ花が咲いている。ただ魚がいる。ただ空気を吸っている。ただ太陽を浴びている。生まれてこのかた何の疑問も疑いもなくです。また、人間は不思議な能力… 直感・推理・判断・記憶といった心理機能・生理機能・五官なる機能が備われています。自分の意思とは関係なく、寝ている間も絶え間なく動き続けています。そう考えると、自分っていうのはいったい何(何者)なのでしょうか。この顔、体が示す肉体的自分が本物なのでしょうか。それがもし何の意味もない錯覚だとしたらどうでしょうか。この世全てがそうだとしたら…。  錯覚はそういう根本的な疑問をもち、全く真逆の角度で物事を見つめないと判断もできず脱出などもできないと思います。一生思おうとも思わないでしょう。そのために、現状に行き着いている原因を知り、全くの別な角度から現状を確認してみる。人生の真の目的に対して、何が錯覚なのか。その原因を知り、どこに向かっていけば良いのか。対策を練るといったきちんと先導する場がない限り、死ぬまでの人生が一生錯覚だったとも微塵も気付かないと思います。こう現実を突きつけられたとしても、それを客観的に信じ(宗教の信じるとは別物)、納得した上だとしても こんなリアルな錯覚から自力での脱出などは可能なのでしょうか…。極論 自力での脱出など不可能です。この自力という部分が錯覚の根源ということだからです。錯覚だと自分が理解しても、自力(自分で考える)にこだわるとしたら、一生堂々巡りとなってしまう要因となってしまうことになります。自力とは自我意識とも言えると思います。ここがとても重要な部分なので、非常に厄介です。今生きている世界が本物と思いながら、錯覚だとも知らないまま、死んでしまうのが今の人類のスタンダードになってしまっています。もし、固有名詞である自分が本物だとしたら、ここに生まれたことも、心臓を自分で動かすことも、自分で操作している実感が伴うはずではないでしょうか。自分が望んでこの世に生まれた実感もないはずなのに、自分が存在している風でいますし、ただ存在どころか、その地球という場所には文明社会が形成されていて、いろんな悩み、問題…地震災害や病気が渦巻いています。殺されたり、自ら命をたったり、災害や事故で無くしたりと問題をあげればキリがありません。こんな経験など自ら選択などするはずがなく、いったいこの地球での経験を通しての人間の最終目的とは何なのでしょうか。答えはすぐ近くにあることが西暦2018年たった今でも数名を除く全世界の人間は気付かずにいます。


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  • 2018.11.30 Friday
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