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情報という幻影

私たちは日々情報という波に埋もれて生活しています。情報は日々これでもかと言わんばかりにその発信をし続け、私たちを死ぬまで陶酔させています。その波に一切触れていない人間などいません。スマホやテレビや雑誌なども情報かもしれませんが、広い意味では人間(肉体)も情報ということです。人生の意義がただ単に外見じみた情報だけで捉えてしまうと人間の本質を見失ってしまうと思います。情報に洗脳されてしまうということです。俗に 洗脳 という意味をイチ宗教に絡めたものに対してイメージしますが、そんなチンケでチープなものではなく、どう考えても見破れない、巧妙なトリックにより私たちの疑いの余地もない状況… これこそが正真正銘の洗脳というものです。宗教の洗脳など単にその一角にすぎないということです。本性は別にあることを気がつかなければなりません。まず人間の本質とは生理機能、心理機能、五感です。この機能がない人は皆無です。この機能がないとただの木偶の坊であり、ゾンビのようなもの。心臓が動き、車を運転したり、人と会話を交わしたり、物を見たり、感動したりすることは絶対にできません。

 

私達は、空気や水を自分で造っているのではありません。ところが、天地が供給する空気や水を、どんどん使用して生きているのです。つまり、人間は生かされているのであって、生きているのではありません。

仏教的に言えば、他力本願的に生かされていることになるのです。そうすると、他力の実体は何であるかということなのです。空気は一体どうしてできるのか、水はどうしてできるのか。この宇宙構造の実体は何であるかということなのです。心理構造や生理構造は、どうして人間に与えられているかということなのです。今、私の目の前に、皆様が座っていらっしゃるとします。皆様は、生れたいと思ってお生れになったのではありません。とすれば、今座っていらっしゃる皆様は、自分ではないはずなのです。

自分が生れたいと思って生れたのなら、自分という人格があっても当然ですけれど、自分が生れたいと思わなかったのに勝手に生れてきたのですから、厳密に言いますと、皆様は自分ではないはずなのです。そうすると、何であるかということになるのです。

 

梶原和義ブログより 一部引用

 

文明社会は目的などありません。そう思い込まされているだけです。

ビルを建てる、売り上げを上げる、ご飯を食べる、旅行に行くっていう意味での目的はあるでしょうが、それは結局情報の一部であり、何の中身もありません。死んだらそこまでの事柄です。そこに人生の価値を一番に持ってくること自体が様々なアイテム(政治、経済、芸能、教育など)によって刷り込まれてしまっているが故ということです。手を変え品を変え巧妙にすり込まれてしまっているのです。人間自身もそう。自我意識というものに邪魔をされていて、本質にたどり着けないように持っていかれます。自分が、お金があれば幸せだと…。そういう世界に身を投じこまされているので、それ自体は仕方がないのですが、この中で、例えば美味しいものを食べて美しい景色を見て、何を感じるかということです。

その本質を捉えない限り、肉体と同じく遅かれ早かれ(といっても数十年の話)儚くついえるだけということです。

この地球で生きている意味は結構紙一重ということなのです。油断せず、驕らず、冷静に、真摯に、実直に、素直に生理機能、心理機能、五感で感じなければ、自我意識がその一挙手一投足を邪魔しに訴えかけます。

本質にたどり着くということは、常に自我意識との攻防を制さねばなりません。その本質をつかめる主戦場が地球ということです。つまり裏を返せば死んだらアウトということです。こういったことにピンとくるかこないか。その差はあります。私たちはどうでしょう…


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  • 2017.09.13 Wednesday
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