植物は花を咲かせ、やがて実を結ぶのに、人間は花を咲かすこともできない。だから死んでしまうのです。愚かなことをしているのです。花が咲いて実を結ぶ。ここに永遠性が良くでているのです。人間はこれを見ていても、分からないのです。人間も花を咲かさなかったらだめです。この世に生きていても、魂に花が咲かなかったらだめです。魂に花が咲くと、魂の香りを自分で感じることができるので す。これがプラトニック・ラブです。これは人間が考えるセックスではありません。この恋が分かってくると、神が見えてくるのです。人間は自分の肉欲のために、恋が分からなくなっています。これは困ったものです。恋は心の花であって、魂の花を意味するのです。人間が生きているということじたいが魂です。魂が神の御心を知って魂の花を咲かせるようになると、この世を去ってからの仕事が分かるのです。人間はこの世に生きるために生れてきたのではありません。この世に生きていてもしかたがないのです。最近日本のメーカーが、次世代のコンピューターを開発しているようです。それは左脳にある推理機能、判断、記憶機能と同じような装置を造って、自ら考えるコンピューターを造ろうとしているのです。考えるという機能を色々組み合わせることによって、ある推論が出てくるというのですが、皆様もこれをすればいいのです。今までの経験内容、記憶内容、そして判断力、推理機能があります。この働きが左脳にありますが、これを活用すると、今まで全然見えていなかったものが、見えてくるのです。今の人間は左脳の働きが非常に悪くなっているのです。考えようとしないのです。馬鹿になっているのです。その結果、とうとう考えるコンピューターを造ろうとしているのです。人間が考えずに、機械に考えてもらおうという所まできてしまった。こうして、人間は完全に馬鹿になってしまうのです。こういうコンピューターを発明しようとしている人々は馬鹿にはなりませんが、大衆は馬鹿になってしまうのです。次世代のコンピューターができて、考える機能が完成したとします。それによって人間がどうなるかと言いますと、ますます馬鹿になっていくのです。人間が現世に生きていることが、無意味なのです。ただ意味があるとすれば、皆様が現世で経験した肉の思いは、肉を解脱して霊の世界に生まれかわるためにあるということです。皆様が何十年の間この世に生きていることによって、色々な経験をインプットされたのです。これを組み合わせていけば、今まで考えられなかった新しい見解が生れてくるにきまっているのです。今までの経験を踏み台にして、これを組み合わせていけば、未知の世界に対して、今まで考えられなかった新しい見解が生れてくるにきまっているのです。今までの経験を踏み台にして、それを組み合わせて前進させることによって、肉の次元が霊の次元に変っていくのです。肉の次元が霊の次元に前進していくのです。この方法を祈りというのです。神とのコミュニケーションによって、これができるのです。聖書が分かるとはどういうことか。全世界八十億あまりの人間に、責任が持てる分かり方でなければいけないのです。これが意識できないようでは、何も分かっていないのです。理屈が分かっただけではだめです。本当に聖書が分かったら、自分の生きざまが変ってくるはずです。生活の一挙手一投足が変ってくるでしょう。聖書の言葉を、もっと深く考え、自分の命にすることを考えなければいけないのです。私たちは全世界の代表者という気持ちで、黙示録の勉強をしていかなければならないのです。今、黙示録の四章が分かる人が、世界にいないのです。
天に開かれた門があります。ここに上がれとあるのです。ここに上がることによってこの世の中の状態、やがて地球が完成するということが見えてくるのです。今、地球に花が咲いていますが、未完成のままで咲いているのです。未完成のままで咲いている花は、やがて完成する目的のために咲いているのであって、花それ自身はそれを自覚することはできません。私たちが勉強すれば、私たち自身が完成することが分かると同時に、花を完成させてあげることもできるのです。花をどのように完成させてあげればいいのか。花が咲いている目的を、果たしてやれるかどうか。聖書を正しく勉強すれば、その方法が分かってくるのです。私たちは万物の長になるために、聖書の勉強をしているのです。自分自身の利害得失のため、自分が救われるために勉強しているのではないのです。自分が生きていると思っているからいけない。この思いをやめなければいけないのです。理論的に分かったと思っても、それが自分の生きざまに反映していないよ うではだめです。例えば、門が開かれていると書いていますが、自分自身が生きていることがらを通して、開かれた門が見えていなかったらだめです。花を見て、開かれた門があることを、どのように説明するかです。お茶を一杯飲んでも、どのように天が開かれているかです。私たちが生きていることにおいて、天の門が開かれていなければだめです。天の門の中が、ずっと見えてくること、それが生活の実感の土台にならなければいけない。これが生活の原理です。この原理を軽々しく考えたらいけないのです。花を見て何を感じるでしょうか。何かを感じるにきまっています。自分が感じていることが何であるかを、正確に説明できなければいけない。開かれた門が生活の実感になっていたら、花を見た瞬間に開かれた門を感じるはずです。花は人間が見るために咲いています。人間以外に見て感心する者はいないのです。神が花を咲かせているのは、人間に見せるためです。人間に見せて、人間に示しているのです。花を見て、神の御心が分からない人は、その人の霊が神の御心に適っていないからです。花が咲いているのは、地球の命が現われているのです。それでは、地球の命が花として現われているとはどういう事なのか。開かれた門として考えると、どういうことになるのか。
花を見てきたないと思う人はいないでしょう。きれいだなと思うことは間違っていません。花を見てきれいだと思うことは。何に感心しているのでしょうか。イエスは次のように言っています。「『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである』。しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである。あなたがたによく言っておく。多くの預言者や義人は、あなたがたの見ていることを 見ようと熱心に願ったが、見ることができず、またあなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである」(マタイによる福音書13・14〜17)。あなたがたの目は見ている、耳は聞いているというのは、弟子たちに言っているのです。あなたがたは見るには見るが決して認めないというのは、ユダヤ人に対して言っているのです。これはイザヤ書六章、九節、十節の引用ですが、ユダヤ人に対するイエスの言い分なのです。多くの預言者や義人たちが見ようとしたことは、新約という事実です。イエスが生ける神の子として地上に現われること、これは新約時代の実現であって、これを旧約時代の人々は見たいと願っていたが、見ることができなかった。ところが、あなたがたはそれを見ている。私はキリストだとイエスは言っていますが、それを旧約時代の人たちは見ることができなかった。弟子たちはそれを見ているのです。ところが、この時代の弟子たちの状態は、まだ聖霊を受けていませんから、イエスがキリストであると、頭で思わされていたのです。イエスが神の子キリストであるらしいと考えて、イエスに従っていたのです。キリストとは何を意味するかを、弟子たちは知らなかった。しかしイエスは、おまえたちは実物を見ることができる。キリストの言葉を聞くことができる、その目は幸いである、その耳は幸いであると言っている。この時はまだはっきりきていないけれど、やがてくると言っているのです。花が咲いているという事実があります。それを見て美しいと思います。美しいとは何か。これについてパウロは次のように述べています。「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心 に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。聖書は『すべて彼を信じるものは、失望に終わることがない』と言っている。ユダヤ人とギリシャ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。なぜなら、『主の御名を呼び求める者は、すべて救われる』とあるからである。しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どう して聞くことがあろうか。つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。『ああ、麗しいかな、良き訪れを告げる者の足は』と書いてあるとおりで ある。しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは、『主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか』と言っている。したがって、 信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。しかしわたしは言う。彼らには聞こえなかったのであろうか。否」むしろ『その 声は全地にひびきわたり、その言葉は世界のはてにまで及んだ』」(ローマ人への手紙10・9〜18)。主の御名を呼び求める者は、すべて救われるとありますが、御名を呼び求めるとはどうするかです。これが、世界中のキリスト教会で、正確に話されたことがないのです。キリスト教会で聖書の勉強をしている人は、御名を呼び求めることを知らないのです。御名を崇めていれば、名を呼び求めることが分かるのです。名を呼び求めるとはどうすることかです。名とは救い主の実体です。名はギリシャ語でオノマと言います。オノマは物事の実質、実体を意味するのです。英語ではネームと訳しています。オノマの正しい翻訳はないようです。だから名と言わなければしょうがないのです。昔から日本の諺には、名は体を現わすという言葉がありますが、人間の場合にはそうなっていないのです。例えば、川上正という名前の人がいるとします。その人が正しくない場合があるのです。人間の場合、名前通りの人柄の人間になっていないことが多いのです。名はその人柄の実体をさすのです。キリストの名を呼び求めるというのはどうすることか。キリストの実体は何かです。実体を知らなければ、それを求めることはできないのです。知ろうと思っても、述べ伝える者がなければ、知ることもできないのです。述べ伝えるものは誰か。述べ伝えるものの足は麗しいとありますが、足とは歩んでいる状態です。働いている状態です。例えば夕焼けの空を見ていると、荘厳な麗しさを感じます。夕焼け空の荘厳な麗しさとは何かと言いますと、よき喜びを伝えているのです。喜びの訪れを伝えるものの足は何か。すべて麗しいと思えるものには、喜びの訪れを伝えている。だから、人間の魂は、美しいものを見たいと思うのです。なぜ夕焼け空を見たいのか、なぜ上がる朝日を見たいのか。なぜ世界各地を観光したいと思うのか。人間の霊魂は無意識に、麗しいものにあこがれるのです。女性が化粧すると、それがよき訪れを伝えるものの足になるのです。顔が美しいことが、良き訪れを伝えるものの足になるのです。麗しいとは何か。山の景色でも、 川の流れ、海の色でも、木々の緑でも、皆麗しいのです。麗しいから見たいと思うのです。それが神の訪れを、皆様に知らせているのです。ところがそれが分か らない。花を見てきれいなことはわかります。それがどうしてよき訪れを告げるものになるか分からないのです。花が美しいという所までは分かります。花の美しさは何か。それを見ることによって、霊魂がどう救われるのか、これが分からないのです。これが分かつている人間でなかったら、天に開かれた門があることが分からないのです。開かれた門が分かっている人には、花を見ただけで福音だということが、分かるのです。分かった人は、人々に伝えなければならない責任があるのです。人間のハートで見て美しいと思うのはなぜか。なぜ美しいと感じるのか。人間のハートにないものが、花にあるからです。美しいというのは、英語で言えば、ワンダフルになります。ビューティフルはワンダフルに通じるのです。ワンダフルはすばらしいと訳していますが、ワンダーとは不思議という意味です。ワンダフルとは、不思議がいっぱいある。不思議千万となるのです。美しいとは思いますが、美しいということの意味が人間には分からないのです。神は人間に美しいという感覚を与えていますが、美しいことの意味が分からないのです。その感覚が何であるかを、人間自身は認識していないのです。美しいという感覚を御霊が人間に与えているのですが、美しいとは何かを理解していない。哲学でも答えていません。東洋哲学も一切教えていないのです。「梶原和義ブログ」より引用
天に開かれた門があります。ここに上がれとあるのです。ここに上がることによってこの世の中の状態、やがて地球が完成するということが見えてくるのです。今、地球に花が咲いていますが、未完成のままで咲いているのです。未完成のままで咲いている花は、やがて完成する目的のために咲いているのであって、花それ自身はそれを自覚することはできません。私たちが勉強すれば、私たち自身が完成することが分かると同時に、花を完成させてあげることもできるのです。花をどのように完成させてあげればいいのか。花が咲いている目的を、果たしてやれるかどうか。聖書を正しく勉強すれば、その方法が分かってくるのです。私たちは万物の長になるために、聖書の勉強をしているのです。自分自身の利害得失のため、自分が救われるために勉強しているのではないのです。自分が生きていると思っているからいけない。この思いをやめなければいけないのです。理論的に分かったと思っても、それが自分の生きざまに反映していないよ うではだめです。例えば、門が開かれていると書いていますが、自分自身が生きていることがらを通して、開かれた門が見えていなかったらだめです。花を見て、開かれた門があることを、どのように説明するかです。お茶を一杯飲んでも、どのように天が開かれているかです。私たちが生きていることにおいて、天の門が開かれていなければだめです。天の門の中が、ずっと見えてくること、それが生活の実感の土台にならなければいけない。これが生活の原理です。この原理を軽々しく考えたらいけないのです。花を見て何を感じるでしょうか。何かを感じるにきまっています。自分が感じていることが何であるかを、正確に説明できなければいけない。開かれた門が生活の実感になっていたら、花を見た瞬間に開かれた門を感じるはずです。花は人間が見るために咲いています。人間以外に見て感心する者はいないのです。神が花を咲かせているのは、人間に見せるためです。人間に見せて、人間に示しているのです。花を見て、神の御心が分からない人は、その人の霊が神の御心に適っていないからです。花が咲いているのは、地球の命が現われているのです。それでは、地球の命が花として現われているとはどういう事なのか。開かれた門として考えると、どういうことになるのか。
花を見てきたないと思う人はいないでしょう。きれいだなと思うことは間違っていません。花を見てきれいだと思うことは。何に感心しているのでしょうか。イエスは次のように言っています。「『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである』。しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである。あなたがたによく言っておく。多くの預言者や義人は、あなたがたの見ていることを 見ようと熱心に願ったが、見ることができず、またあなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである」(マタイによる福音書13・14〜17)。あなたがたの目は見ている、耳は聞いているというのは、弟子たちに言っているのです。あなたがたは見るには見るが決して認めないというのは、ユダヤ人に対して言っているのです。これはイザヤ書六章、九節、十節の引用ですが、ユダヤ人に対するイエスの言い分なのです。多くの預言者や義人たちが見ようとしたことは、新約という事実です。イエスが生ける神の子として地上に現われること、これは新約時代の実現であって、これを旧約時代の人々は見たいと願っていたが、見ることができなかった。ところが、あなたがたはそれを見ている。私はキリストだとイエスは言っていますが、それを旧約時代の人たちは見ることができなかった。弟子たちはそれを見ているのです。ところが、この時代の弟子たちの状態は、まだ聖霊を受けていませんから、イエスがキリストであると、頭で思わされていたのです。イエスが神の子キリストであるらしいと考えて、イエスに従っていたのです。キリストとは何を意味するかを、弟子たちは知らなかった。しかしイエスは、おまえたちは実物を見ることができる。キリストの言葉を聞くことができる、その目は幸いである、その耳は幸いであると言っている。この時はまだはっきりきていないけれど、やがてくると言っているのです。花が咲いているという事実があります。それを見て美しいと思います。美しいとは何か。これについてパウロは次のように述べています。「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心 に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。聖書は『すべて彼を信じるものは、失望に終わることがない』と言っている。ユダヤ人とギリシャ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。なぜなら、『主の御名を呼び求める者は、すべて救われる』とあるからである。しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どう して聞くことがあろうか。つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。『ああ、麗しいかな、良き訪れを告げる者の足は』と書いてあるとおりで ある。しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは、『主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか』と言っている。したがって、 信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。しかしわたしは言う。彼らには聞こえなかったのであろうか。否」むしろ『その 声は全地にひびきわたり、その言葉は世界のはてにまで及んだ』」(ローマ人への手紙10・9〜18)。主の御名を呼び求める者は、すべて救われるとありますが、御名を呼び求めるとはどうするかです。これが、世界中のキリスト教会で、正確に話されたことがないのです。キリスト教会で聖書の勉強をしている人は、御名を呼び求めることを知らないのです。御名を崇めていれば、名を呼び求めることが分かるのです。名を呼び求めるとはどうすることかです。名とは救い主の実体です。名はギリシャ語でオノマと言います。オノマは物事の実質、実体を意味するのです。英語ではネームと訳しています。オノマの正しい翻訳はないようです。だから名と言わなければしょうがないのです。昔から日本の諺には、名は体を現わすという言葉がありますが、人間の場合にはそうなっていないのです。例えば、川上正という名前の人がいるとします。その人が正しくない場合があるのです。人間の場合、名前通りの人柄の人間になっていないことが多いのです。名はその人柄の実体をさすのです。キリストの名を呼び求めるというのはどうすることか。キリストの実体は何かです。実体を知らなければ、それを求めることはできないのです。知ろうと思っても、述べ伝える者がなければ、知ることもできないのです。述べ伝えるものは誰か。述べ伝えるものの足は麗しいとありますが、足とは歩んでいる状態です。働いている状態です。例えば夕焼けの空を見ていると、荘厳な麗しさを感じます。夕焼け空の荘厳な麗しさとは何かと言いますと、よき喜びを伝えているのです。喜びの訪れを伝えるものの足は何か。すべて麗しいと思えるものには、喜びの訪れを伝えている。だから、人間の魂は、美しいものを見たいと思うのです。なぜ夕焼け空を見たいのか、なぜ上がる朝日を見たいのか。なぜ世界各地を観光したいと思うのか。人間の霊魂は無意識に、麗しいものにあこがれるのです。女性が化粧すると、それがよき訪れを伝えるものの足になるのです。顔が美しいことが、良き訪れを伝えるものの足になるのです。麗しいとは何か。山の景色でも、 川の流れ、海の色でも、木々の緑でも、皆麗しいのです。麗しいから見たいと思うのです。それが神の訪れを、皆様に知らせているのです。ところがそれが分か らない。花を見てきれいなことはわかります。それがどうしてよき訪れを告げるものになるか分からないのです。花が美しいという所までは分かります。花の美しさは何か。それを見ることによって、霊魂がどう救われるのか、これが分からないのです。これが分かつている人間でなかったら、天に開かれた門があることが分からないのです。開かれた門が分かっている人には、花を見ただけで福音だということが、分かるのです。分かった人は、人々に伝えなければならない責任があるのです。人間のハートで見て美しいと思うのはなぜか。なぜ美しいと感じるのか。人間のハートにないものが、花にあるからです。美しいというのは、英語で言えば、ワンダフルになります。ビューティフルはワンダフルに通じるのです。ワンダフルはすばらしいと訳していますが、ワンダーとは不思議という意味です。ワンダフルとは、不思議がいっぱいある。不思議千万となるのです。美しいとは思いますが、美しいということの意味が人間には分からないのです。神は人間に美しいという感覚を与えていますが、美しいことの意味が分からないのです。その感覚が何であるかを、人間自身は認識していないのです。美しいという感覚を御霊が人間に与えているのですが、美しいとは何かを理解していない。哲学でも答えていません。東洋哲学も一切教えていないのです。「梶原和義ブログ」より引用
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