地球に神の愛が満ちているコト

植物は花を咲かせ、やがて実を結ぶのに、人間は花を咲かすこともできない。だから死んでしまうのです。愚かなことをしているのです。花が咲いて実を結ぶ。ここに永遠性が良くでているのです。人間はこれを見ていても、分からないのです。人間も花を咲かさなかったらだめです。この世に生きていても、魂に花が咲かなかったらだめです。魂に花が咲くと、魂の香りを自分で感じることができるので す。これがプラトニック・ラブです。これは人間が考えるセックスではありません。この恋が分かってくると、神が見えてくるのです。人間は自分の肉欲のために、恋が分からなくなっています。これは困ったものです。恋は心の花であって、魂の花を意味するのです。人間が生きているということじたいが魂です。魂が神の御心を知って魂の花を咲かせるようになると、この世を去ってからの仕事が分かるのです。人間はこの世に生きるために生れてきたのではありません。この世に生きていてもしかたがないのです。最近日本のメーカーが、次世代のコンピューターを開発しているようです。それは左脳にある推理機能、判断、記憶機能と同じような装置を造って、自ら考えるコンピューターを造ろうとしているのです。考えるという機能を色々組み合わせることによって、ある推論が出てくるというのですが、皆様もこれをすればいいのです。今までの経験内容、記憶内容、そして判断力、推理機能があります。この働きが左脳にありますが、これを活用すると、今まで全然見えていなかったものが、見えてくるのです。今の人間は左脳の働きが非常に悪くなっているのです。考えようとしないのです。馬鹿になっているのです。その結果、とうとう考えるコンピューターを造ろうとしているのです。人間が考えずに、機械に考えてもらおうという所まできてしまった。こうして、人間は完全に馬鹿になってしまうのです。こういうコンピューターを発明しようとしている人々は馬鹿にはなりませんが、大衆は馬鹿になってしまうのです。次世代のコンピューターができて、考える機能が完成したとします。それによって人間がどうなるかと言いますと、ますます馬鹿になっていくのです。人間が現世に生きていることが、無意味なのです。ただ意味があるとすれば、皆様が現世で経験した肉の思いは、肉を解脱して霊の世界に生まれかわるためにあるということです。皆様が何十年の間この世に生きていることによって、色々な経験をインプットされたのです。これを組み合わせていけば、今まで考えられなかった新しい見解が生れてくるにきまっているのです。今までの経験を踏み台にして、これを組み合わせていけば、未知の世界に対して、今まで考えられなかった新しい見解が生れてくるにきまっているのです。今までの経験を踏み台にして、それを組み合わせて前進させることによって、肉の次元が霊の次元に変っていくのです。肉の次元が霊の次元に前進していくのです。この方法を祈りというのです。神とのコミュニケーションによって、これができるのです。聖書が分かるとはどういうことか。全世界八十億あまりの人間に、責任が持てる分かり方でなければいけないのです。これが意識できないようでは、何も分かっていないのです。理屈が分かっただけではだめです。本当に聖書が分かったら、自分の生きざまが変ってくるはずです。生活の一挙手一投足が変ってくるでしょう。聖書の言葉を、もっと深く考え、自分の命にすることを考えなければいけないのです。私たちは全世界の代表者という気持ちで、黙示録の勉強をしていかなければならないのです。今、黙示録の四章が分かる人が、世界にいないのです。
天に開かれた門があります。ここに上がれとあるのです。ここに上がることによってこの世の中の状態、やがて地球が完成するということが見えてくるのです。今、地球に花が咲いていますが、未完成のままで咲いているのです。未完成のままで咲いている花は、やがて完成する目的のために咲いているのであって、花それ自身はそれを自覚することはできません。私たちが勉強すれば、私たち自身が完成することが分かると同時に、花を完成させてあげることもできるのです。花をどのように完成させてあげればいいのか。花が咲いている目的を、果たしてやれるかどうか。聖書を正しく勉強すれば、その方法が分かってくるのです。私たちは万物の長になるために、聖書の勉強をしているのです。自分自身の利害得失のため、自分が救われるために勉強しているのではないのです。自分が生きていると思っているからいけない。この思いをやめなければいけないのです。理論的に分かったと思っても、それが自分の生きざまに反映していないよ うではだめです。例えば、門が開かれていると書いていますが、自分自身が生きていることがらを通して、開かれた門が見えていなかったらだめです。花を見て、開かれた門があることを、どのように説明するかです。お茶を一杯飲んでも、どのように天が開かれているかです。私たちが生きていることにおいて、天の門が開かれていなければだめです。天の門の中が、ずっと見えてくること、それが生活の実感の土台にならなければいけない。これが生活の原理です。この原理を軽々しく考えたらいけないのです。花を見て何を感じるでしょうか。何かを感じるにきまっています。自分が感じていることが何であるかを、正確に説明できなければいけない。開かれた門が生活の実感になっていたら、花を見た瞬間に開かれた門を感じるはずです。花は人間が見るために咲いています。人間以外に見て感心する者はいないのです。神が花を咲かせているのは、人間に見せるためです。人間に見せて、人間に示しているのです。花を見て、神の御心が分からない人は、その人の霊が神の御心に適っていないからです。花が咲いているのは、地球の命が現われているのです。それでは、地球の命が花として現われているとはどういう事なのか。開かれた門として考えると、どういうことになるのか。
花を見てきたないと思う人はいないでしょう。きれいだなと思うことは間違っていません。花を見てきれいだと思うことは。何に感心しているのでしょうか。イエスは次のように言っています。「『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである』。しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである。あなたがたによく言っておく。多くの預言者や義人は、あなたがたの見ていることを 見ようと熱心に願ったが、見ることができず、またあなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである」(マタイによる福音書13・14〜17)。あなたがたの目は見ている、耳は聞いているというのは、弟子たちに言っているのです。あなたがたは見るには見るが決して認めないというのは、ユダヤ人に対して言っているのです。これはイザヤ書六章、九節、十節の引用ですが、ユダヤ人に対するイエスの言い分なのです。多くの預言者や義人たちが見ようとしたことは、新約という事実です。イエスが生ける神の子として地上に現われること、これは新約時代の実現であって、これを旧約時代の人々は見たいと願っていたが、見ることができなかった。ところが、あなたがたはそれを見ている。私はキリストだとイエスは言っていますが、それを旧約時代の人たちは見ることができなかった。弟子たちはそれを見ているのです。ところが、この時代の弟子たちの状態は、まだ聖霊を受けていませんから、イエスがキリストであると、頭で思わされていたのです。イエスが神の子キリストであるらしいと考えて、イエスに従っていたのです。キリストとは何を意味するかを、弟子たちは知らなかった。しかしイエスは、おまえたちは実物を見ることができる。キリストの言葉を聞くことができる、その目は幸いである、その耳は幸いであると言っている。この時はまだはっきりきていないけれど、やがてくると言っているのです。花が咲いているという事実があります。それを見て美しいと思います。美しいとは何か。これについてパウロは次のように述べています。「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心 に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。聖書は『すべて彼を信じるものは、失望に終わることがない』と言っている。ユダヤ人とギリシャ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。なぜなら、『主の御名を呼び求める者は、すべて救われる』とあるからである。しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どう して聞くことがあろうか。つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。『ああ、麗しいかな、良き訪れを告げる者の足は』と書いてあるとおりで ある。しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは、『主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか』と言っている。したがって、 信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。しかしわたしは言う。彼らには聞こえなかったのであろうか。否」むしろ『その 声は全地にひびきわたり、その言葉は世界のはてにまで及んだ』」(ローマ人への手紙10・9〜18)。主の御名を呼び求める者は、すべて救われるとありますが、御名を呼び求めるとはどうするかです。これが、世界中のキリスト教会で、正確に話されたことがないのです。キリスト教会で聖書の勉強をしている人は、御名を呼び求めることを知らないのです。御名を崇めていれば、名を呼び求めることが分かるのです。名を呼び求めるとはどうすることかです。名とは救い主の実体です。名はギリシャ語でオノマと言います。オノマは物事の実質、実体を意味するのです。英語ではネームと訳しています。オノマの正しい翻訳はないようです。だから名と言わなければしょうがないのです。昔から日本の諺には、名は体を現わすという言葉がありますが、人間の場合にはそうなっていないのです。例えば、川上正という名前の人がいるとします。その人が正しくない場合があるのです。人間の場合、名前通りの人柄の人間になっていないことが多いのです。名はその人柄の実体をさすのです。キリストの名を呼び求めるというのはどうすることか。キリストの実体は何かです。実体を知らなければ、それを求めることはできないのです。知ろうと思っても、述べ伝える者がなければ、知ることもできないのです。述べ伝えるものは誰か。述べ伝えるものの足は麗しいとありますが、足とは歩んでいる状態です。働いている状態です。例えば夕焼けの空を見ていると、荘厳な麗しさを感じます。夕焼け空の荘厳な麗しさとは何かと言いますと、よき喜びを伝えているのです。喜びの訪れを伝えるものの足は何か。すべて麗しいと思えるものには、喜びの訪れを伝えている。だから、人間の魂は、美しいものを見たいと思うのです。なぜ夕焼け空を見たいのか、なぜ上がる朝日を見たいのか。なぜ世界各地を観光したいと思うのか。人間の霊魂は無意識に、麗しいものにあこがれるのです。女性が化粧すると、それがよき訪れを伝えるものの足になるのです。顔が美しいことが、良き訪れを伝えるものの足になるのです。麗しいとは何か。山の景色でも、 川の流れ、海の色でも、木々の緑でも、皆麗しいのです。麗しいから見たいと思うのです。それが神の訪れを、皆様に知らせているのです。ところがそれが分か らない。花を見てきれいなことはわかります。それがどうしてよき訪れを告げるものになるか分からないのです。花が美しいという所までは分かります。花の美しさは何か。それを見ることによって、霊魂がどう救われるのか、これが分からないのです。これが分かつている人間でなかったら、天に開かれた門があることが分からないのです。開かれた門が分かっている人には、花を見ただけで福音だということが、分かるのです。分かった人は、人々に伝えなければならない責任があるのです。人間のハートで見て美しいと思うのはなぜか。なぜ美しいと感じるのか。人間のハートにないものが、花にあるからです。美しいというのは、英語で言えば、ワンダフルになります。ビューティフルはワンダフルに通じるのです。ワンダフルはすばらしいと訳していますが、ワンダーとは不思議という意味です。ワンダフルとは、不思議がいっぱいある。不思議千万となるのです。美しいとは思いますが、美しいということの意味が人間には分からないのです。神は人間に美しいという感覚を与えていますが、美しいことの意味が分からないのです。その感覚が何であるかを、人間自身は認識していないのです。美しいという感覚を御霊が人間に与えているのですが、美しいとは何かを理解していない。哲学でも答えていません。東洋哲学も一切教えていないのです。「梶原和義ブログ」より引用

現代文明の間違い

現代文明に流れている基本原理は、即物主義、唯物主義です。即物主義とは、現象が実体であるという考え方なのです。目で見ているとうりのものがあると考えるのです。これがヨーロッパ人の思想です。現代の日本人も皆こうなっています。これを、般若心経では色蘊といっています。五蘊皆空の蘊という字ですが、蘊とは人間の中にある迷いのようなものです。色蘊とは、物質が存在するという思想です。色蘊が現代文明の基礎になっていま す。これが即物主義なのです。物に即してすべてを考える。生活でも、生命でも、すべてを物に即して考える。これが近代文明の特徴です。ところが、これが間違っているというのが、般若心経の見解なのです。これが釈尊の根本精神なのです。空というのは釈尊の非常に優れた思想です。人間が、現在肉体的に生きているという考えは、間違っているといっているのです。そのとおりです。人間は命で生きているのであって、肉体で生きているのではない。ところが、現代の医学は、人間の命は生理的なものだといっているのです。例えば、心臓が止まることが死である。脳波が止まることが死であるといっているのです。これは物理的な考えなのです。命は物理的なものではなくて、霊的なものです。物理的な面もありますが、心理的な面もあるのです。従って、命を正しく知ろうと思えば、生理的な面だけを勉強してもだめなのです。ですから、現代人は生きてはいるけれども、命が分かっていないのです。こういう間違った生活のしかたをしているのです。これが肉の思いでありまして、その結果、人間は死ななければならないことになるのです。生きていながら命を知らない。これは誠に不合理な話なのです。皆様方の心臓は神と対話しています。花は咲いていますが、咲いているという現象は、花が神と対話していることなのです。人間が生きているというのは、花が神と対話しているようなことです。皆様方の目が花を見て美しいと思うのは、花が神と対話している状態を、美的感覚で捉え て美しいとお感じになるのです。つまり皆様方の目は命を見ているのです。花を見ているのではなく、命を見ているのです。花が神と対話している状態を命と言 うのです。目は命をつかまえるだけの力を持っているのです。ところが、思いは命を捉えるだけの力を持っていない。これを迷いというのです。無明というものです。なぜそうなるかといいますと、神が分かっていないからです。本当の霊が分かっていないからです。私の言う霊というのは、日本の霊ではありません。もっと大きい霊なのです。地球が現在動いているそのことなのです。地球を造った霊なのです。人間を造った霊なのです。皆様方の命を現実に支配している霊です。これが分かれば命が分かるのです。「梶原和義ブログ」より引用

社会構造

社会生活とは、極論一人一人の人間が、そのちっちゃな枠に適合するかしないかだけ。ただの人間のエゴの塊な世界。自作自演のヤラセでペテンな社会構造の中とは、人生の本当の目的には何の意味も関連性もないのです。人類のほとんどが偽装世界から抜け出せないよう、あらゆる何重もの娯楽や情報や教育、政治、経済、何とか主義、宗教といったトラップをまき散らし、社会というものに依存させ、それが人生の目的であり全てのように見せかける骨格を作っています。世界は自由自由と歌っていても、真実はまやかしなのです。経済の基軸はユダヤが握っています。これはまぎれもない事実です。都合が悪くなると、私たちの首根っこを掴んできます。いまはそういった化けの皮がはがれる現象が世界で発生して来ています。にもかかわらず、社会に依存するのは何故か?人生とは、本当の人間が生きている目的とは。生きている意味の考えを改めないのは何故か?朝起きる、仕事をする、ご飯を食べる、寝る、遊ぶ、、一連の流れがすっかりシステム化として確立してしまっています。これから外れることなど、選択の余地がないと言うほどに。時に私たちは社会は理不尽で不平等でおかしいとは思うでしょう。間違った世界だとは感じるでしょう…。ですが、結局張り巡らされたトラップに引っかかり、元のサヤに戻ってしまうのオチです。そうして人生の本当の意味を見いだせず、死んでしまうのです。この世の楽しさ、快楽に従事して…。その後の問題があるとは知らず…。

風景

この文明は真っ白…無になって自然風景をしみじみと眺める余裕などないと思います。ただ見るだけ。じっくり眺めることなどしていないのではないでしょうか。あったとしても常に日常が横やりを入れて、静観することを阻んでいます。命の本質はそこではないのに、社会生活が命の本質に座しています。木々の葉はなぜ一枚一枚形が違うのか。色のコントラストがこれほど細かいのか。地球上にある無数の物質はなぜこうもいろんな種類があるのか。それもこれも元を辿ればルーツとなるものは一つ。色や形や存在意義が違うだけ。そんな本質には目も触れず、社会、会社という収容所でもくもくと悩み、考え、絶望したり、驚喜したり、一喜一憂している現状です。今日もどこかで事故に巻き込まれたり、殺されたり、病気したりで死んでいく人間は数知れません。死ぬ時にはこの世で培った能力や、地位や財などは一切完全に終了なのです。人類社会とは無駄なことをしているにもかかわらず、その無駄な社会でさらに無駄をなくすというような本末転倒な作業をしているのです。無駄とはいえこの世界はそれがルールなので避けようがないのですが、命を見いだすことはできます。命を見つけると、たち位置が変わります。たち位置がかわると、意識が別の次元になります。別の次元になると、自分という人間は死ぬことになります。じっさい死ぬ訳ではなく、意識的に死ぬ。自分という人間はいないという認識。この肉体が実体ではなく、今目が見えること、心臓が動いている事実、直感やひらめきといった、自分とは別のもの…。自分という自我はしつこく、ヒョコヒョコしゃしゃり出てきますが、自分はいないという意識になるのが当たり前だと気づくのです。自分はいないということはこの世はあってないということになります。この世にあるすべての物質は “原子” で出来ているということに表されています。そういうつじつまが合うことなのです。これが核心なのです。

自分が生きている証

今の世界中の人々は基本的に“自分が生きている”という意識を持っていると思います。そこには疑いの余地などなりません。疑うという概念がそもそもないと思います。自分がしっかり稼いで、家族を養って、会社を発展させて、社会の役にたっている。まさに自分がこの世界に生きている証をしっかりと根付かせる為の人生…。これで十分。死は間際になるまで置いといて、と。いう意識であり、そして死の間際、いままでの人生が走馬灯に思いがよぎり(多分)、たかだか100年ほどの一生を終えます。よぎる間もなく死んでしまう人もまた多いのです。実に不自然で不平等で、おかしいと思いませんか?よく考えれば“自分が(自分で)生きている”って虫がよすぎる話だと思いませんか?そもそも自分が自分の力で生きてる人なんていません。食べ物だって、空気だって、心臓だって自分でまかなっている人間などいません。洗濯機や電子レンジや飛行機など、文明の象徴のモノでも元の原材料はもともとある資源から拝借したにすぎないのです。あたかも自分が創造したかのように人間は振る舞っています。また人間の命に関しても同様です。拝借しているにすぎません。魂が腐っているから人生の本質が分からないのです。なぜそういう不自然な命で生きているのか、という疑問も生じようとしないのでしょうか。今の生きている証など存在ぜず、一瞬の幻にすぎないことが、この2012年たった今でも理解できません。しかし人類はもはや限界値にきていることはうすうす感じてはいると思います。今の20〜30代の若者が定職につきたくてもつけない問題が大きくなっています。自分には対社会とのスキルがない。ついていけない。そんな若者が相当数いる時代なのです。こんな世界が素晴らしいと思いますか?例え働いている人でも、本当は社会になんて順応したくない本心があれど、そうせざるを得ない。そんな人はかなり多いのではないでしょうか。人類と形成している何とか主義社会とはまさに強制収容所の世界です。そしてそこから脱出する方法もまたあるのですが、そこにたどり着くには、石頭である人類はかなり難関なのでしょう…。

地獄行きから逃れる方法

本当にとこしえの命を持とうと思いますと、人間の根性の底をこわしてしまわなければいけないのです。イエスは言っています。「誰でも私についてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、私に従ってきなさい」(マタイによる福音書16・24)。本当にイエスについていきたいと思うかどうかです。そう考えるなら自分を捨てなければいけないのです。
自分を捨てるとはどうすることかを、二十五節に書いています。自分を捨てるというのは、イエスのために、自分の命を失うとなっています。これが自分を捨てることなのです。イエスについていくことは、イエスのために自分の命を捨てることなのです。キリスト教を信じることは簡単ですが、本当に聖書を信じることは、なかなかできません。本当にイエスについていきたいと思っているかどうか、自分が救われたいと思っているかです。もしイエスについていきたいのなら、自分を捨てなければいけないのです。これを認めるかどうかです。イエスについていくということは、初めから自分を捨てることになるのです。人間は自分を持っていると大変得をするように考えていますけれども、これが最も愚かな考えです。自分を持っているほどバカな考えはありません。人間はここが分からないのです。自分を捨てて得をした経験がないからです。ですから、本当に聖書を信じられる人は、めったにありません。キリスト教と称される一連の聖書の解釈はみんな嘘なのですから…。人間は悪いところばかりを見る癖があります。ですから、不平や不満ばかりを持っているのです。それが地獄の本質です。人間は現在地獄にいるのです。人間は自分が損した、不利益をこうむったことばかりを考えるのです。良い方のことは考えないで、いやなこと、損をしたことばかりを考える。そういう妙な癖があるのです。真実は人間は生きているうちに地獄にいるのです。そして生きているうちなら地獄から逃れることができますが、現世を去ったら地獄から出られなくなるのです。地獄から出るにはどうするか。自分から出ればいいのです。自分から出るとは、自分に関係がない人格を見つければいいのです。神を信じるという気持ちがあればできるのです。人間は若い時から、不平不満ばかりを感じているのです。人の腹の中ばかりを見ているのです。人を裁いてばかりいた。これが記憶の塊になっているのです。その記憶の塊が、その人を地獄に引きずりこむのです。
今、生きている間に一歩でも二歩でも、地獄から出る訓練をするのです。どうすればいいかと言いますと、毎日生かされていることに感謝をすること、空が見えること、食べて味わえること、耳が聞こえること、そういう有難いことを数えるのです。これが地獄から出る方法です。
暗いほうに目を向ければ、地獄ばかりです。これを聖書は暗きにいると言っています。暗きにいる者は、光に来ることを拒むとあります。生きているうちに、一歩でも二歩でも暗きから出ることを訓練するのです。明るい方、明るい方へと、自分の気持ちを向けるのです。こればかりしたらいいのです。この世は文句を言えば切りがありませんが、有難く思えばいくらでも良いことがあるのです。地獄は無限にありますが、天国も無限にあるのです。嫌なことを言われたら、それが自分の業が果てるのですから、そういう人を有難いと思わなければいけない。嫌なことを言われることを有難いと思ったらいいので す。暗い方へ目を向けることは一番損です。御霊を崇めることは簡単明瞭です。うれしいこと、楽しいこと、美しいことばかりに目を向けていればいいのです。 これを御霊を崇めると言うのです。人間は毎日、いらいら、くよくよと、人を恨んだり、憎んだり、妬んだりしています。それよりも、今生かされていることの有難さをいつでも考えるのです。目が見えることの有難さ、耳が聞こえることの有難さ、歩けることの有難さを感じるのです。これが天国に入ることなのです。生ける神を自分の友達にするのが、一番いいです。そうすると、いつでも明るい方が考えられるのです。暗いほうは絶対に考えないのです。神の国と神の義を求めていれば、勝手に生活ができます。神の国へ入ったら得をするにきまっています。暗い所に目をつけたり、憎んだり恨んだりしていますと、すでに黄泉にいる状態になるのです。生きながら黄泉にいるのです。これから抜け出すことを考えるのです。暗い所から、愛子の国へ移されるということが、悪魔を裏切ることになるのです。暗いことを一切考えないことが、有難いことに、悪魔を裏切ることになるのです。自我意識を裏切ることになるのです。これが十字架を崇めることになるのです。天気がよければ気持ちがいいこと、雨が降ったら、木々が濡れていること。何でも有難いと思ったらいいのです。これが白蟻穏識に勝つことです。自我意識に勝つ 手っ取り早い方法です。自我意識に勝てば、黄泉に勝てる。悪魔に勝てるのです。でもできることをしないから、地獄へ行かなければならないのです。最澄の言葉に、「道心に餌食あり、餌食に道心なし」とあります。道を求める人に必ず生活がついてくるというのです。二十五節に、「自分の命を救おうと思うものはそれを失い、私のために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう」とあります。“イエス(様)に従いたい”という思いが、間違っているのです。自分がイエスに従いたいと思っているのではないでしょうか。こういう考え方は間違っています。自分がイエスに従いたいと思っている人は、必ず蹟きます。従いきれない自分がいるからです。まず自分を捨てるのです。残るのは魂です。魂がイエスに従えばいいのです。悪魔に勝つこと、黄泉に勝つことは、難しくないのです。誰でもできるのです。「梶原和義ブログ」より引用

地獄の本質(自分が勝手に地獄をつくっていく)

命は自分のものではありません。人間は自分の命ではないものを、自分の命であるように考えて、自分の思いどおりに使っています。これを不敬度と言います。命の実質は神です。これを人間は貸し与えられているのです。人間は命を知っていながら、その本質を弁えようとしないで、生きています。これは命を汚しているのです。自分が生きていると考えて、自分のものではないものを、自分のもののように使っています。これは背任横領になるのです。人間は命を預けられているのです。預けられた命を自分のもののように使っています。自分の都合、自分の考えだけで使っています。これははつきり背任横領罪になります。これが地獄へ行く原因になるのです。人間は毎日、地獄を造っています。それを魂は知っているのです。ところが人間は、それをして平気でいるのです。これが文明です。現代文明は恐ろしい文明です。神を踏みにじっているからです。この世にいる間は、文明人だ、文化人だと言って威張っていますけれど、この世を去ってしまいますと、ひどいめにあいます。命は皆様の所有物ではありません。それを自分自身の所有物のように考えて、自分の欲望を果たすために、自分の命や自分の肉体を使っているでしょう。これが間違っているのです。本来地獄はありませんが、間違った生き方をしているために、毎日、地獄を造っているのです。人間は愚かなことをしているのです。現代教育が間違っているのです。西欧文明の間違い、ユダヤ人が神に反抗している間違いが、地獄を造っていくのです。ありもしない地獄を、人間の間違った生き方によって、毎日造っていくのです。そういう生き方は根本的に間違っているのです。人間は自分の命で生きているのではありません。大自然、天然自然によって生かされているのです。天然自然の本質は神です。自分の間違いをはっきり認めればいいのです。悪かったということがはっきり分かればいいのです。聖人君子のようになる必要はありません。赤ん坊のようになればいいのです。イエスは幼児のようにならなければ、神の国に入れないと言っています。どうか幼児のようになって頂きたいと願うのです。(梶原和義ブログ)より引用

考えるのではなく、感じるコト

社会的には考える事が必需品になっています。商売の世界はもろそういうことです。ですが、生きている意味という観点では非常に考える事が邪魔になります。今の生活は考える事が主流で、いくら真実を前に置いても、考えるクセでそれを置きっぱなしにしていまうのがオチなのです。
考えるより、5官で感じなければ、しかもそれを信頼しなければ、自分の考えが常に邪魔をしてしまいます。たとえ信頼しても付きまとうのです。人間は自分の力で心臓を動かせません。つまり命は自分のものではないのです。そこを軸にして感じなければ、怪しい何とか宗教のような意味合いになってしまいます…。ここは紙一重なのです。命は大事なもの。神様から与えられたもの。それは言葉で表さずともこの世に生きている人間としてはよくわかっているはずです。ですが、捉え方が違うのです。与えられた命を自分のものと勘違いしているのです。であるならば、自分の意志で心臓も動かせるようにするはずです。自分の寿命も自分で決められるはずです。かけがえのない命を神様から与えられたものと思いながらも、自分中心の世界で自分を尊重しながら生きているのです。それってどうでしょう?屁理屈と思うのでしょうか?この世の資源だって、水一杯をも人間は作れません。それを我が物顔で自分のものにしています。現代文明は命の本当の意味を感じようとさせるスキを与えません。年を重ねるごとに見事に本質から逸脱していくのです。教育、文化、芸能、スポーツ、科学、政治、仕事…。そういうものを駆使して人間の一生を終了させていきます。酷い話です。私たちはこの地球上で生きている限りそのレールを走らねばならないという宿命はあります。無視する事は物理的に不可能。ですが、命の本質を捕まえる事は誰でもできます。つまり人間の人生とは命の本質を捕まえるか否かなのです。死ぬという価値… 死ぬという存在感… 死ぬという現実…。それに対してはあまりに浅はかで、軽く、勝手にいい解釈にし、幻想を植え付け、惑わしし続けているこの地球上での社会生活…。なぜ神が介入しないのか、なぜ神はいないという存在感な様相になっているのか…。その真実にある恐ろしさも100年あまりの浅はかな命を無駄に過ごし、実際に死なねば分からないのでしょうか…。

ワタシという矛盾

今、この地球で私たちが生きている人生、この世のシステムとリンクしなければ生活基盤が成り立たないというのは現実としてあります。いくら正論をいったとしても、所詮奇麗ごとでかたずけられます。それよりも地位や名誉、お金が正論の軸となりきっています。それに絶望し、自ら命を絶ってしまう人も後を絶ちません。そうぜずとも、そう思った人は計り知れないほどいることでしょう…。悲しいかな現状、人類はそういう陰湿な弱肉強食の世界ということです。何度も言いますが、そんな世界に好き好んで自分は望んで生まれてきたわけではありません。誰でも自覚して生まれてきた人間など一人もいません。そもそも国も選べなければ、母体を選べるわけでもありません。半強制的に生まれてきました。そんな自分を自分そのものと思っているのが今の人類です。自分を重んじ、自分を尊重し、この世の自分が全てと思い…そして何より生きている目的(本質)が分からないのです。お金儲け?死んで持っていけますかってこと。人間は不平等極まりない文明の何とか主義を重んじて生きています。さもそれが生きる本質の如く…。文明で生きている自分は、これだけ矛盾だらけなのです。そんな自分を人生の本質の中心と考え、 死ぬまで自分を守っているのです。お墓のことを必死で考えているのです…。死んでから自分はどうなるなんて、考えた事もないでしょう。そういった部分は宗教という誤摩化しにオプラート化されているのです。そんな生活に追われる間にも死は待ったなしに迫っているのです。

インチキ

この世は騙し騙され、理不尽でインチキで傍若無人極まりない世界で、基本は成り立っているということが、最近はいろんな現象としてぼろぼろ出てくるわ出てくるわ…で、この世のシステムはもう限界値にきているのでしょう。トータルとして特に言える事は、品格というものがまるでなし。見苦しいというか、あきれる実体ということです。本心は傍若無人なことをしたいが、できないからそのせめぎ合いの繰り返し。何が正しいかなんて所詮幻想。だってこの世界自体がインチキなのだから。じゃあ何、この世で生きるなってこと?っていう問題定義でもないのです。
この世はこの世でまあ、しゃあない。この世の人生数十年、生活していくには、避けて通れませんので、まあ呑むしかない。ただ、呑み方が問題だと言いたいのです。今の人類は呑み方を知らずにいます。そもそも呑むって概念がわからないのです。さて、人類社会はインチキはそうなのですが、最凶ってジャンルは何だ!?と考えたら、それはもう宗教以外ないでしょう…。まあ、いろいろあります。キリスト教を筆頭に、イスラム、ヒンドゥー、仏教、ユダヤ、それにニューエイジ…スピリチュアル系や魔術や占いもか(もうメンドクサイ…)世界には多くの宗教の派が存在します。そこに白黒つけ合っているという全く馬鹿な事を人類はしています。いったい何考えてんでしょう。曲がりなりにも聖書を基本としているキリスト教が、最凶軍団(宗教)馬鹿筆頭のであることをいい加減気付けってこと。まさに聖書を小馬鹿にしているとはこのこと。

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